缶詰でつながった たくさんの絆
「石巻水産」(後の木の屋)が創業した昭和32年は、まだ戦後の食糧難を引きずっていた時代。
鯨肉は栄養豊富な食料として、日本の食卓に欠かせないものでした。
当時、石巻の港には三陸の鯨が活発に水揚げされていました。肉だけでなく、鯨の皮や脂を加工する工場も多く立ち並んだことから、石巻は次第に「鯨のまち」と呼ばれるようになりました。
「新鮮な鯨肉をたくさんの食卓に届けたい」と考えたのが、木の屋の初代社長。朝早くリヤカーを引いて港で鯨肉を買い付け、石巻や内陸の登米周辺で行商を始めました。
創業から約40年が経った1999年、二代目へ代替わりした石巻水産は、屋号を「木の屋石巻水産」に変更します。
「石巻に根付く企業として、地元のものを活かした事業を地元で展開したい。そして『石巻』という産地を全国に広めていきたい。」そう考えた二代目は、鯨に加えて三陸の魚を使った缶詰づくりを開始しました。
順調にファンを増やしてきた矢先、東日本大震災が石巻を襲います。
会社も工場も、魚市場さえも津波で流された木の屋は全てを失いました。
そんな状況の中、「もう一度木の屋の缶詰が食べたい!」という応援が全国から寄せられるようになりました。
倉庫の中に、泥に埋もれた缶詰が残されていることが分かると、震災前から親交のあった都内の飲食店からは「泥付きでも構わないから、流された缶詰を送って欲しい。こちらで販売して復興資金に当てよう」というあたたかい言葉も。
「缶詰でつながったたくさんの絆のおかげで、なんとかここまで立ち直ることができました。本当に、こだわりの缶詰あってこその木の屋だな、と思いますよ。」
2013年、内陸部に「美里町工場」が新設されました。そのデザインは鯨をイメージしたもので、黒い壁となだらかな曲線を描く屋根が印象的です。
見渡すかぎりの広々とした田んぼの真ん中に、堂々と立つ大きな工場。
たくさんの希望を乗せて、鯨は石巻で力強く泳ぎ続けます。
鯨肉は栄養豊富な食料として、日本の食卓に欠かせないものでした。
当時、石巻の港には三陸の鯨が活発に水揚げされていました。肉だけでなく、鯨の皮や脂を加工する工場も多く立ち並んだことから、石巻は次第に「鯨のまち」と呼ばれるようになりました。
「新鮮な鯨肉をたくさんの食卓に届けたい」と考えたのが、木の屋の初代社長。朝早くリヤカーを引いて港で鯨肉を買い付け、石巻や内陸の登米周辺で行商を始めました。
創業から約40年が経った1999年、二代目へ代替わりした石巻水産は、屋号を「木の屋石巻水産」に変更します。
「石巻に根付く企業として、地元のものを活かした事業を地元で展開したい。そして『石巻』という産地を全国に広めていきたい。」そう考えた二代目は、鯨に加えて三陸の魚を使った缶詰づくりを開始しました。
順調にファンを増やしてきた矢先、東日本大震災が石巻を襲います。
会社も工場も、魚市場さえも津波で流された木の屋は全てを失いました。
そんな状況の中、「もう一度木の屋の缶詰が食べたい!」という応援が全国から寄せられるようになりました。
倉庫の中に、泥に埋もれた缶詰が残されていることが分かると、震災前から親交のあった都内の飲食店からは「泥付きでも構わないから、流された缶詰を送って欲しい。こちらで販売して復興資金に当てよう」というあたたかい言葉も。
「缶詰でつながったたくさんの絆のおかげで、なんとかここまで立ち直ることができました。本当に、こだわりの缶詰あってこその木の屋だな、と思いますよ。」
2013年、内陸部に「美里町工場」が新設されました。そのデザインは鯨をイメージしたもので、黒い壁となだらかな曲線を描く屋根が印象的です。
見渡すかぎりの広々とした田んぼの真ん中に、堂々と立つ大きな工場。
たくさんの希望を乗せて、鯨は石巻で力強く泳ぎ続けます。
木の屋のこだわり
季節の美味しいお魚を
季節の美味しいお魚をいただく「フレッシュパック製法」
水揚げされた魚を、当日内に加工することで獲れたての一番おいしい瞬間を閉じ込めます。
朝獲れの魚を早ければ当日の昼までに缶詰に加工。
冷凍ではなく季節のお魚を加工する木の屋のこだわりです。 日本の魚のうまみを引き出すには、日本でつくった調味料が一番。例えば、醤油。創業当時より、地元石巻の無添加醤油を使用しています。他に、砂糖は鹿児島の喜界島産、塩は讃岐産の塩を使用しています。
水揚げされた魚を、当日内に加工することで獲れたての一番おいしい瞬間を閉じ込めます。
朝獲れの魚を早ければ当日の昼までに缶詰に加工。
冷凍ではなく季節のお魚を加工する木の屋のこだわりです。 日本の魚のうまみを引き出すには、日本でつくった調味料が一番。例えば、醤油。創業当時より、地元石巻の無添加醤油を使用しています。他に、砂糖は鹿児島の喜界島産、塩は讃岐産の塩を使用しています。